2017年8月29日火曜日

私の先生のお話(1)

名古屋市役所合気道部のお知らせ(57)





 こんばんは。今回は私の合気道の先生のことを書きます。先生は本名を岩田一(はじめ)と言いますが、道場では常々岩田一空斎という名前を使っていました。

 岩田先生は昭和6年に出来たばかりの植芝盛平師範の道場(皇武館道場)に二人目の内弟子として入っています。入門はそれ以前で、始めは早稲田大学の学生寮から通っていたそうです。

 初めて植芝先生の道場に行ったときに、勝手に稽古していたら、ものすごい剣幕で叱られたことを楽しそうに話していたのを思い出します。当時は、入門するのに然るべき人の紹介状が必要だったようで、岩田先生も後日改めて東京大学の教授の推薦状をもらってやっと正式に入門を許可されたとお聞きしました。

 内弟子と言うのは要するに家芝家の雑用全般を担当するのですが、それは主に鎌田久雄という最初の内弟子がされていたようです。岩田先生はまだ若かった二代目の植芝吉祥丸氏の家庭教師のようなことを主体にしていたと語っていました。もちろん、その他の雑用もあったそうですが。

 岩田先生から内弟子時代のことをいろいろ伺いましたが、特に覚えているのがいろいろな武術家が出入りしていたということです。剣術家、体術家、槍術家、さらには忍者まで出入りしてそうです。忍者は甲賀流の藤田西湖と言う人です。具体的にどんな技を習ったかという話を岩田先生はあまりされませんでしたが、日夜いろいろと研究に励まれたそうです。

 さて、出入りしていた武術家の中で特に大きな存在だったのが武田惣角先生でした。この方は植芝盛平師範の先生だったのですが、いろいろな逸話が残っている有名な武術家です。岩田先生は「気性の激しい、非常に腕のたつ方」という表現をしていました。

 さて、岩田先生と言えば、昭和15年から20年にかけて中国の上海に皇武会支部道場を開いていたことで有名です。まだ合気道とは言わない時代でした。中国には少林寺拳法を始めとして幾多の体術がありましたから、随分と苦労も多かったそうです。端的に言えば、「道場破り」が日常茶飯事だったということです。岩田先生も皇武会の看板を背負っていますから、負けるわけにはいかないと、厳しい試合をしたこともあったと語っていました。また、岩田先生は柳生新陰流を柳生厳長師範から手ほどきを受けていたので、中国に進出していた日本軍の部隊で剣術を教えていたとも言います。随分血なまぐさい経験もあったようですが、詳細は語っていません。

 終戦を迎えて昭和20年に帰国したとお聞きしましたが、台湾の蒋介石主席の厚情を非常に感謝していました。


 今回はこれくらいにします。



                     

師範 白井敬二







【9月の稽古予定表】


枇杷島スポーツセンター 第二競技場 午後6時15分〜7時15分

6日、13日、20日、27日(すべて水曜日)



北スポーツセンター  第二競技場 午前10時〜11時30分

10日、17日、24(すべて日曜日)




*いずれの会場も稽古1回ごとに300円の会費をお支払いいただきます


枇杷島スポーツセンターでは、個
人使用料200円が別途必要です。








【重要】(入会について)

   見学、お試し期間を経て、師範から正式に入会を許可さ

れ、入会申込書を提出して、正式な部員になります。まずは

見学からどうぞ。入会者は基本的に名古屋市役所職員、家

族、OB・OGです。


   見学希望者は、 師範の白井敬二まで、まずメールでご連絡

ください。 質問もOKです。


(メールアドレス)white1000million@gmail.com


   その際には、件名を「合気道」とお書きください。所属

と、氏名、電話番号も明記してください。なお、時々返信メ

ールが届かない場合あります。私からの返信メールが届くよ

うに、必ず、着信拒否の設定を外しておいてください。

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